挑発的な文面で申し訳ない。ただ、どうもWindowsは10で終わる気がしてならない。
それは永遠のバージョンアップというお題目的な意味ではなく、終焉という意味での終わり。
その気持ちを今、記しておきたかった。

まず大前提として、Windows10の想定する操作体系は従来のWindowsと全く異なる、ということ。これは、ストアアプリからもWindows10そのものからも明白だが、しかしソースを添えておこう。

かつては存在も知らなかったが、例えばWindows7やVista向けのエクスペリエンスガイドラインなるものが存在する。
Windows10アプリUXガイドラインとは質を異にしていると感じる。

ここから独断と偏見

Windows10は半ばマウス操作を放棄した。OS内でもどこでも検索させる、そういう常識を意図的にすり込もうとしている。

非常に啓蒙的かつUNIX的かもしれない、もはやコントロールパネルを素で開く方法もわからないくらいだ。

常識をすり込む、それはかつて「マイドキュメント」を置き、データとプログラムの置き場を分離していき、一度はスタートメニューを無くしたように。
さて、そんな思惑の入ったスタートメニュー、Windows10では「営業戦略以外の意味で」果たして本当に必要だったのか?

自分が知る範囲でさえ、遅くともWindows98時代にランチャーソフトは存在していた。
Windows2000 RC2を入れ、発売当日に買った身として、正しく動かなかったことを記憶している。
決してスタートメニューは使いやすくない、デスクトップをダブルクリックする方がどれほどマシだったか。
CLaunchやOrchisを使っていたケースもあれば、単純にリンク並べて事足りることもあった。

スタートメニューが復活したWindows10は、ある種のランチャー殺しを始めた。
かつては内部的に単純なファイルリンクだったメニューは、その様相を一変させた。
デスクトップに貼り付けても、ソフトにリンクファイルを送るとアウト。昔ながらのファイルシステムとレジストリ知識では、ちょっと追いかけきれない。

ストアアプリ貴様のことだ!

必要最低限の文化的生活を送るためには4Kモニタ必須、これが国民の常識となって久しい。
うちみたいな27インチ4Kだと、従来の手法のままでは上手く表示できない、正しい理解は追いついていないが、そういう話を拒むつもりは毛頭ない。

少なくとも名目として、その対策も込みでUXガイドラインを大幅に改訂したこともまた、理解できなくもない。 しかし、モノには限度がある。

なんだこのクソみたいな操作性は。 従来のWindows操作感を失わせ、ハンバーガーメニューを配置し、フォントサイズもままならぬとは何事か。

ストアアプリ貴様のことだ!

そして何よりBash on Ubuntu on Windows(BoW)というかWindows Subsystem for Linux(WSL)がいよいよ正式になる。
BoWもそうだが、Windowsは次々とコマンド入力に傾倒している、Powershell然り、コマンドプロンプト機能強化然り。
先も書いたように、操作そのものがコマンド入力、というかテキストベースに移行している。

Microsoftが手放したUXを、Electronが受け付いでマルチプラットフォーム化。 Electronの技術を使って、Visual Studio Codeをオープンソース化。
そのVisual Studio CodeからBash on Windowsを開いてmonoでコンパイルして実行…とかもう。 この状況を俯瞰すると、歪みが酷すぎる。

こんなだから、変態エディタvimは本気で端末機能載せ始めたんじゃないのかと思うくらいだ。 具体的に補足しておくと、Windows版gVim 8.0.1159では「:term」でコマンドプロンプト、「:term powershell」でPowershell、「:term bash」でbashが起動する。

WSLから見てWindowsは、またWindowsから見てWSLは異質な存在で、これは根本的にどうしようもない話だろう。
そういう意味で、異質が混在するWindowsより、素直にLinuxなりBSDなり入れた方がよほど素直かもしれない。少なくともノートに入れてるUbuntuの方が素直に見えるし、個人的にはワクワクできる。

PowerShellもVSCodeもMonoもオープンソース化したのだ、MITライセンス中心だけれども。
最終的にWinodwsは「Linux Subsystem for Windows」みたいな所まで行くのではないか?WINEを最高の一品に書き換えられる唯一の企業で、The Linux Foundationプラチナメンバー。

Microsoftに求められるているのはほぼ「ソフトウェア保守」であり、暴論するならOfficeとゲームが動けばいい。
Linuxでいう「デスクトップ環境」思想を取り入れれば、XPがいいVistaだ7だという論争は不要になる、好きなモノを選べばいい。Windowsの後方互換性維持力が途方もないものなのは、改めて語るまでもない。

ただしWINEはオープンソースではなく自由ソフトウェア、GNU GPLライセンスだ。この条件を呑めるかどうか。
OSをインフラと見なし、修繕サービスで対価を得ようとする思想はむしろGPLライセンスと親和性が高いはずなのだが…はてさて。

利用者が全員別OSに移行するのが先か、WindowsのGPL化が先かのチキンレース、こう書くとあまりに非現実的だが、忘れてはならない。

Windows95が出る前はDOS派とWindows派、UNIX派が侃々諤々の議論をしていたことを。

そんな途方もない時代がまたやってきたのだとしたら、もうちょっと長生きして見届けたいものだ。まあ、先に逝ってるかもしれない、だからこれを記しておきたかったのだ。

どんな時代がきても、Emacsを使うかどうかは別だが
(最後に火種をばらまくスタイル)