もりゃきに後は無い

操作の一貫性

とてもくだらない話。

かつて自分にとって「Ctrl+M」という操作は改行(Enter)と等価だった。もっと言うならCtrlキーと組み合わせた操作はホームポジションを崩さない高速操作の要だった。

しかしWindowsの普及に伴い、馴染んでいた操作体系は捨てざるを得なかった。標準の名のもとに、あらゆる操作は画一化され強制に従う方が楽に感じるほどだった。ダイヤモンドキーなどは過去の遺物で、ただの異端だった。

Bash on Ubuntu on Windowsが使えるようになったのは、ここで改めて書くまでもない衝撃的な事件だろう。しかし自分にとっては、おそらく一般的な感性とも、あるいはそうでない人から見ても、おそらく違う意味を持っていた。

久しく自分の手から離れていたコマンドライン。デファクトスタンダードと言えるvimを触り、チートシートと睨めっこしながら操作をしていると、懐かしい感覚が襲いかかる。

「ESCキー操作が多い、もっと楽にできるはずだ」

その直感は正しかった。ESCキーと同等の操作は「Ctrl+[」とても懐かしい匂いだった。MS-DOSのテキストエディタVzだっただろうか?霞むような記憶の中で多用した覚えがある。そんな中、試したくなったのだろう「Ctrl+M」を押すと、当然のようにEnterと同じ動きをした。

果たしてvimの動作なのか、bashの動きなのか、端末wslttyの動きなのかは、恥ずかしながら無知ゆえにわからない。しかし常識のように振る舞っているのは紛れもない事実だった。
実のところWindowsでも「Ctrl+M」が改行の振る舞いをするソフトはある。自分は使っていないが秀丸エディタ、それどころかWindows標準のメモ帳でさえ、そのように動く。また、ATOK標準キーバインドも実はそのように意識されている。

ではなぜ使わなくなったか。とてもくだらない話だ。

期待通りに動かない、程度ならマシだった。意図しない動きをされては本末転倒ではないか。

いつか見たあの花の名前は頭おかしかった

ここまで語った「Ctrl+M」改行操作についてだが、手元のチートシートでは頭を抱えたくなる所に記載されている。
「Emacs」リチャード・ストールマンが深く関わり、GNUの名を冠するものが源流となるソフト、テキストエディタと呼んでいいのかさえわからない。「Emacs対vi論争」「GPLライセンス」ここだけでも超弩級の地雷になるテーマ。

さすがに地雷原に飛び込む発言は控えるが、Emacs単体でも十分に奇妙なソフトだ。まるでEmacsそれ自体で閉じた世界 になるような紹介の数々。否、ろくに知りもせずに語るのもまた地雷原に飛び込むのと同じだろう。
Emacsの歴史は、日進月歩という表現が緩く感じる急激な進化の世界で信じられないほど長い。実時間よりずっと重い歴史。その歴史に影響された者が、どこかにその歴史の片鱗を埋め込んで、その片鱗をいつの間にか自分も受け取っていたという事実。

全ての操作に一貫性を持たせ、全てを自らの支配下に置く、そんな理想。対人関係なら即座に歪んで、問題が出て、排除されかねない、獣のような欲望。だからこそだろうか、Emacsを語る者がみな頭おかしいかのように見えてしまうのは。

Emacsの歴史から片鱗を受け取る、それは獣の血を自身に取り込むも同然だろう。その血を受け入れることも、あるいは拒絶することも、きっと「片鱗を受け取る」ことには変わりないように思う。 その美しい花の片鱗が自分の中に息づいていることに、驚いて涙まで流したのだろう。手を伸ばせばそこにある花、ただ「頭おかしい」と目を背けるなど、なんと愚かでくだらない話なのだろう。
そんな事を思いつつ、今日もまたEmacsもvimもチュートリアルを起動しない、何も動こうとしていない自分が一番くだらないという、救いがたいほどくだらない話だ。